一口に”勉強”といっても、いろいろな勉強があると思っています。
卑近なのは学校の勉強ですが、料理の仕方を調べることも勉強ですし、旅先の歴史を知ることも勉強です。師匠に弟子入りして経験を積むことも、誰からも教わらずに傷つきながら体得していくのも、どちらも勉強です。
そう考えていくと、学校の勉強というものはとても特殊なものだと思えてきます。ぼくのイメージでは、”勉強”というすごく大きい世界の一部に学校の勉強が鎮座している感じです。
勉強することは、とても楽しいことだと思っています。
全身全霊で新たな世界に立ち向かっていくことも楽しいですし、立ち向かうたびにレベルアップが実感されるのも楽しいです。
勉強する前は、上手くできなかったり上手くできるイメージが湧かなかったりして億劫になることもありますが、勇気を出して勉強を始めてみると、自分のレベルアップを楽しむことができます。
肉じゃがも、何度も作るにつれて安定した美味しさになり、余裕が生まれて味付けや盛り付けに個性を出せるときがついにきます。
勉強は、結果を指定されると楽しめなくなるのかもしれません。
倉敷の歴史的な景観を見物し終えた後、そこで見た内容をテストされると思うと、自分の純粋な好奇心で歴史と触れ合うことができなくなります。
もちろん、結果を全く意識しなければ、だんだんとモチベーションが湧かなくなってきたり張り合いが感じられなくなってきたりすることもあると思います。
そんな時は、自分で結果を指定設定したらいいんじゃないかと思います。
“倉敷の歴史を、自分が撮った写真を見せながら友だちに紹介する”という結果を自分で設定したとしたら、やっぱり勉強的なことも楽しくなりそうじゃないですか?
学校の勉強というものの特殊性と、広い意味での”勉強”の楽しさについて、これからも考えて発見をここに綴ろうと思います。